花嫁人形






























作詞:蕗谷 虹児
作曲:杉山 長谷夫
発売:2005-11-21
  花嫁人形
金襴緞子の帯しめながら    花嫁御寮はなぜ泣くのだろ
文金島田に髪結いながら    花嫁御寮はなぜ泣くのだろ
あねさんごっこの花嫁人形は  赤い鹿の子の振袖着てる
泣けばかのこのたもとがきれる 涙で鹿の子の赤い紅にじむ
泣くに泣かれぬ花嫁人形は   赤い鹿の子の千代紙衣装

蕗谷虹児(作詞者)は『花嫁人形』の装画を何度も描いていますが、上の絵は『少女の友』(実業之日本社刊)の1951年3月号に掲載されたものです。

「未婚のわが子に先立たれた親が「せめてあの世で結婚してほしい」と、結婚相手として花婿や花嫁の人形を納める寺が青森県にある。戦争で息子を亡くした母親が始めたとされ、近年は子の自殺を「悩みに気付けなかった」と悔やむ親が「婿や嫁を授け、一区切りつけたい」と納める例も増えている。

青森県つがる市の弘法寺。人形堂には白無垢や羽織はかま姿の日本人形が入ったガラスケースが約900個並び、遺影と共に菓子やジュースが供えられている。赤ん坊や子どもの人形が一緒のケースもあり「孫の顔を見たかったという思いもあるのだろう」と住職の白戸裕智さんは話す。 白戸さんによると、始まりは1950年ごろ。未婚で戦死した息子を思い、一人の母親が花婿と花嫁の手作り人形を寺に納めた。伝え聞いた戦没者の親が、次々と奉納するようになった。」(2017.8.16の産経ニュースから引用)

今ウクライナやロシアで多くの若い人が亡くなっています。プーチンの罪は重いと思います。ウクライナやロシアで我が子を亡くした母親はどのように悲しみを抱えて日々生活しているのでしょうか。敗戦時陸軍大臣阿南惟幾は太平洋戦争末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府で本土決戦への戦争継続を主張したが、昭和天皇の聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、同年8月15日に割腹自決しました。せめて亡くなった我が子の花嫁として花嫁人形を弘法寺に奉納した母親の悲しみへの謝罪として割腹自決したならば救いはあるでしょうが。「天皇陛下にお詫びし割腹自決す」ならば救いはないでしょう。フランスを降伏させ、パリーを凱旋するヒットラーの映像が残っています。数年後、ベルリンの総統官邸の地下壕で自害することになるとは夢にも思わなかったでしょう。インドネシアを占領し、東南アジアの資源を抑えた阿南惟幾や、東條英機さらに昭和天皇裕仁も数年後の敗戦を夢にも思わなかったでしょう。時の流れは不思議です。不可解です。残酷ですらあります。

こんなA級戦犯を合祀している靖国になぜ与野党の一部の議員達や大臣は参拝するのでしょうか?日本軍によって殺されたアジアの人々や空爆下我が乳のみ子を背に負ぶって逃げ回った女性達の焼死者など政治を抜いた戦争の被害者を慰霊する施設をなぜ造らないのでしょうか。敗戦から60年以上も経った今でもお寺や神社の人々はなぜ考えないのでしょうか?ネットでお寺さんが発する記事は多数見ますが、皆お寺の経営が苦しい話ばかりで、花嫁人形を奉納する女性達の悲しみなどについて書かれた記事は見ません。これではお寺の明日は暗いでしょう。

そもそも仏像や死者にお寺が読むお経ですが、例えば大唐西遊記で有名な玄奘三蔵法師は仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、629年当時の西域(現シンチャン(新疆)ウイグル自治区)のシルクロードである河西回廊を通りさらに西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートをたどって、インドに行き、ナーランダ僧院で戒賢(シーラバドラ)に師事して唯識を学び、西域南道を経て645年に、657部のサンスクリット語の仏典を長安に持ち帰りました。玄奘は、持ち帰った膨大な仏典の翻訳に余生の全てを捧げまし。で、この漢訳の仏典が日本に渡り、お経としてお寺さんが読経しています。なぜお寺さんはこのお経を今私たちが使っている日本語に訳さないのでしょうか?そもそもお経を仏像や死者に読んでも意味が無いと思います。仏法を説いたお経は生きた私たちに生き方、人生観などを教えるテキストです。ネットである寺の書き込み欄に上の意見を書き込みましたが、返事がありません。永代供養の宣伝に熱心で、なぜ仏教が衰退していくかの根本原因に目を背けるこの寺の明日も暗いと思います。

人はなぜプーチンや阿南惟幾、東條英機さらに昭和天皇裕仁のように人としての道を踏み外すのでしょうか?なお昭和天皇裕仁ですが、数回の御前会議で対米開戦を認め、当時の日本の最高統治者・施政者として宣戦の詔勅を下しました。この御前会議ですが、今残っている資料によれば、戦争のためどれくらい人々が亡くなるかなど1度も議論されず。勝てるか、どうすれば勝てるかといったことを議論しています。しかし、勝ってもいつかは亡くなるのです。初めて中国を統一した秦の始皇帝は不老不死を望みましたが、望みは叶わず、亡くなりました。そして始皇帝死後数年後その秦すら滅びました。

皆さんはどう思われますか?

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